エッフェソイヤ!

建築のバックグラウンドから、次世代の建築を作るにはどうすればいいか考えているデザイン系院生が、建築/ゲーム/XR/UXデザイン/シチュアシオニスト/バク転/カポエラ/パルクール/筋トレ/クラブカルチャーについて幅広く語ります。

インテリの世界に片足突っ込んでみて考えたこと

こんにちは、前に書きためていたちょっと硬いかつ青臭い文章を投稿します。
大学院に所属する、というのは、片足をすごくアカデミックな世界に突っ込んでいく、ということです。
そこで、僕は大学3~4年からなんとも言えない学術界の雰囲気に対してモヤモヤした気持ちを持ちながら、それなりに真面目に勉強してます。そのモヤモヤを、色々とつっこめるところはたくさんありますが、言語化してみました。割と界隈でしか伝わらないキーワードも入っています。
 
 
まだ自分でも色々とよく分っていない領域のことを考えているので、何かこれ違くね?みたいなのあればコメント頂けると嬉しいです。

 

※後から読み返して見て、少し"インテリ”の定義が誤解されるかな、と思うので、説明します。
ここで僕が想定していた”インテリ/知識人”は、明確な定義が難しいのですが、
大学機関に所属している、人文学系の論文や書籍を公開したりしている人々、またはその人たちが公開している論文や書籍を読んでいる人々のことです。学歴の高い低いなどの話はしていません。また、人文学系以外の人がインテリではない、という意味ではなく、建築学科の意匠系(デザイン系)と呼ばれる分野も、線引きが難しいですがどちらかというとこの領域に属しているので、自然と対象がそこに絞られたというだけです。

 

"インテリ"って実際何してんの?

"インテリ"と呼ばれる種類の人たちがいる。
学歴がどうこう、というよりは、ある学術界の中で、論文や書籍を発表することで世の中との関わり合いを持っている種類の人たちだ。僕の今半分所属する建築界の、建築家の方々ももれなく”インテリ”と言って間違い無いだろう。
 
ある思想、特に社会科学・人文系のインテリ(以降、知識人)とされる人間が発した思想や、明らかにした社会のルール/法則らしきものが、非インテリ/大衆/一般人(以降、大衆)が大半を占める社会に、具体的にどのように影響を与えているのか。
彼らは、ただの時代の変曲点の発見者に過ぎず、結局誰が一番早くそれを見つけるかが問題で、変曲点自身を作り上げることはできないのではないか。
社会科学・人文系以外だと、工学や物理、生物系のインテリの人々の研究は、世の中にある程度直接的に大きな影響を及ぼしているように見える。(iPS細胞など)
 
自分の限られた勉強の範囲から見ると、20世紀以前の西洋世界では、社会科学・人文系の知識人は変曲点の発見者ではなく、変曲点の創出者であるという考え方がまだ生きていたようだ。政治学者や経済学者の考えたフレームワークや、巨匠建築家の考えた新たなデザインの枠組みがトップダウンで巡っていき、世の中を変化させて行ったように、現代僕が触れることのできる文章には書かれている。
知識人が、「大きな物語」を作り、大衆はそれに乗っかっていく。大衆は誰が動かしているかなど知らずとも、知識人がつくりあげたフレームの中で生きる、ように多くの歴史は語られている。
 
しかし現代はどうだろうか。
大衆の個人レベル、最小単位の意見が、無意識的に集合して思想(一般意志)を作っていく、その際に、知識人の介入する隙間はない、というよりも彼ら自身もその集合のごく小さな一部分で、彼らが持つ影響力は”大衆”の持つ影響力と変わらないように僕には見える。
 
cf.東浩紀「一般意志2.0」、オルテガ「大衆の反逆」、「アメリカの反知性主義」
 
知識人たちは、ある変曲点の発見者としてしか成立しえない、ということなのだろうか。
知識人は、もはや社会で実際に起きているが、大衆が気づき得ない要素を顕在化することでしか、社会に参入することができないのではないか。
さらに言うならば、その顕在化の行為ですら、世の中の大半の人間は存在すら知らずに生きていく。この行為を続けることにどれだけの意味があるのか。
 

プレイヤーと解説者

ちょうど、あるスポーツのプレイヤーと、それを外から見ている解説者の差に似ている。新しいスポーツのテクニックを実践して、ゲームのバランスやルールを変えていくのはプレイヤーで、解説者はそれに対して名前をつけたり、どういう系譜でそのテクニックが作られているかを解説することはできるが、新しいテクニック自体を作ることはできない。
この二者なら、自分はプレイヤーになりたい。知識人になってしまうと、現代においてはどうやら解説者にならざるを得ないように思える。
そもそも、20世紀以前の知識人たちも、その時代に生きている一人の人間であったし、確実に時代の潮流の影響を受けている。
構造主義的な考え方をするならば、ある人間は常に彼が生きる時代のフレームワークの中でしか思考をすることができない。
とするのならば、ある一人の知識人は変曲点を作り出すのではなく、それこそ建築のように、時代の流れ、変曲点を彼らが可視化するしかできないというのは、別に現代に始まったことではないのかもしれない。
 
 

"みんなのための建築"

ただ、現代では社会階層のさらなる細分化・島宇宙化が進んでおり、違う階層・共同体へのコミュニケーションが乏しくなっている。建築界と言う、ある種恵まれた都市部に住む文化的な、しばしば金銭的にも富裕層で構成される集団は、例に漏れず、他の共同体までその想像力を働かせることはできていない。方便として想像力が働いているかのように振る舞う建築家はたくさんいるが。
 
もちろん、自分も自分周辺の限られたコミュニティーにしか想像力を働かせることができていないので、”みんな”のための建築を作る、というのは非常に難しく感じる。
 
Brexitやアメリカ大統領選挙に際し、都市部と地方で意見が真っ二つに分かれたことや、東京発信の文化が地方へ進出するという図式がもはや成立していないことなどが、そういった状況を象徴している。
 

趣味クラブ問題

これは、学術界と実践を行き来するタイプの、建築家のような、ある”作者”(=知識人)が想像する、彼の”作品”により生まれる社会的影響と、現実に起こっている社会の変化との剥離が、今までになく大きくなっていることを表している。そして、その状況に私は大きな失望を覚える。
つまり、磯崎新が何を言おうが、レム・コールハースが何を言おうが、それはあくまで建築界という、言ってしまえば趣味クラブのようなものの中の内輪ネタとして消費されてしまっているだけではないか。
現代の建築界が、数多くのアニメオタクや漫画オタク、Jpopファンなどの趣味クラブと同列に存在するように、少なくとも私には見える。
ただ、古代ローマ・ギリシャから出発し20世紀あたりまでは存在したと言われる「建築」という営為が、文化を作り上げて、世の中を動かす立場に”あった”、というそれ自体不確かな自認、うぬぼれのようなものを、感じ取ってしまう。
その趣味クラブの内輪ネタが、ある敷地に、ある物質性を持って30年やそこら存在していても、街の風景は一向に変わらない、と僕は今まで生きてきた経験からは感じる。
建築学科の学生の中で、「あれは建築じゃねーよ」とバカにされるハウスメーカーの住宅は、"安くて、安心で、おしゃれ"なので購入される。
ゼネコンの建てたビルは、”経済的で、機能的で、ガラスがかっこいい”。
建築家の住宅は”高く、住みづらく、よくわからないし、寒いし雨漏りする。”
ザハ・ハディドのスタジアムは高くて迷惑なカブトガニで、学生の建てたパビリオンは燃える”。
 
それが、大学で建築学を専攻していない普通の人の意見ではないだろうか。
 

“備忘録"の情報化

普通の人から見てそれが役に立つ/よいものでなかったとしても、“備忘録としての建築”(cf. 石山修武)にある意味/影響力のようなもの、それは確かに存在する。
しかし、情報技術というメディアにより、特別な技能や知識を持たずしてもあらゆる個人が”備忘録”を作り、発信し、その内容によっては”バズらせる”ことが可能になった今、
物理的に存在する時間が比較的に(絶対的に、ではない)長いから、という理由で、趣味クラブの内輪ネタを建物という媒体を通して伝えるための十分な理由となりうるのか。
また、不動産やテナントビルの収益、所有者の経営難による売却など、物理的ではない要素により建築が取り壊されることは多い。
そんな時代の中で、内輪ネタ以上の何かを伝えることはできるのだろうか。できるとすれば、今は何を伝えるべきなのだろうか。