エッフェソイヤ!

建築のバックグラウンドから、次世代の建築を作るにはどうすればいいか考えているデザイン系院生が、建築/ゲーム/XR/UXデザイン/シチュアシオニスト/バク転/カポエラ/パルクール/筋トレ/クラブカルチャーについて幅広く語ります。

建築学科で学べたこと(建物を建てる以外)

自分は何者か、暇なうちに少し詳しく書いておこうと思います。

よく、"なんで建築にしたの?"と聞かれたり、"実際建築学科って何してんの?家建ててよ!"と言われたりするので。

実は結構建築って学科内で色々やってて、スキルの使いようによっては家建てる以外にもかなり応用効くんですよ〜、という記事を、学科じゃない人にもなるべく伝わるように書きました。

 

 なぜ建築学科を選んだのか

建築は、高校2年あたりから意識し始めた。ドイツにいる時にホストファザー/マザーが建築家だったことがきっかけ。
帰国後、高校3年のギリギリまで進路に迷っていたが、決め手となったのは高校留学を終えた帰国直後にみた重松象平さんという建築家の情熱大陸。中国のCCTVの社屋を建てるプロジェクトのドキュメンタリーだった。

https://arcspace.com/wp-content/uploads/CropUp/-/media/698876/OMA-CCTV-Headquarters-1.jpg

OMA CCTV

難しいことは考えられなかったが、

こんなに変なカタチをしたバカでかいものを、地球上に建てることができるのか!!

と非常に男子高校生らしい理由で建築に興味を持った。

※みんながこういうアホな理由で入ってくる訳ではないです。ちゃんとしている人も沢山います。

また、付属高の大学準備講座で、建築スケッチの授業があり、描いて見たら以外と楽しかった、というのも理由。

f:id:ryuta0201:20121116123112j:plain

当時、他にも脳科学・情報学・機械工学に興味があったが、それらの世界に進まなかったのは、上に書いたように質量を有したモノのデザインができることにより魅力を感じていたから。また、正直にいうなら自分の理工学的素養に自信がなかったから。
 
しかし、興味の対象がもともとかなり広かったので、自分は建築士になるため、というより、より広範囲にデザインを勉強したかった。デザインの中で当時一番大きなスケールで複雑そうに見えたのが建築デザイン。建築が実際に形を持って世の中に存在するハードの中で、最も一つの存在が良くも悪くも世の中に影響を与えると当時は思っていた。
 
今、思い返すと、世の中を変えていく、という面だけで考えた場合、今の時代であればソフト面、すなわちITや金融、政治、法改正、ビジネスの提案など、ただ世の中を変えるだけなら方法はいくらでもある。
 
 建築学科とのそうした出会いから、大学での学びも、建築士になるための専門的な知識を深めるというよりは、建築デザインの思考、手法、技術をどのように他分野に応用できるかを考えていた。
 
 

入学後、デザインってカタチだけじゃねーのか...

学部で色々な課題をこなしていくうちに、"デザイン"という言葉には、一般的に考えられるモノの表面上の色や形を決めていくこと以外にも、モノの作られ方や、そのモノにより生まれる人々の関係性など、見えない部分を決めていくことが、色や形の前提になっていることを理解していった。
例えば、屋外にあるベンチは、多くの人が短時間座ることを想定しており、かつ外で雨風にさらされるため、クッションがなく、長い形をしている。そして、ベンチの並べ方により、人の交流の仕方は様々に異なる。横一列に並べれば、人は自然と別々の時間を過ごす、もしくは過ごしたい人が集まり、向かい合わせに並べれば、逆に一人になりたい人は座りづらい。そういった面も、デザインと呼べることを学んだ。
※この話は、デザインを少し勉強すると「アフォーダンス理論」という言葉でよく出てきます。
建築物の設計において、それは、壁・窓・階段の位置、はたまたどこに建てるか、どんな機能を有するのか、という話に広がっていく。

 

https://www.parisianist.com/assets/img/articles/jardin-des-tuileries/tuileries-01.jpg   https://encrypted-tbn3.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcTH_qkpzwrLEwMPjjA10NyLvKUvOeX12TOlaJ-Khcea35tGpb0o-g

 

見れないものを見て、カタチに変える勉強

自分が最初に憧れた、彫刻作品のようなカタチがかっこいいビルは、あくまでデザインの一部分、氷山の一角であることに気づいていった。
もっというならば、そのかっこいいカタチは、例外もあるが、実は先述のような”見えない部分”の山のような検討の元に成り立っている場合が多かった。
さらに勉強するうちに、建築の常に都市的な関係性を意識した上で、建物だけでなく、それが成り立つ目に見えない仕組みをデザインしたり、解き明かしたりする面に面白さを感じた。
そこで、ある設計課題では、ある街の歴史的成り立ちを調査することにより、実はその街が湖の底にあったことを発見し、それを設計に活かして町中に銭湯を計画したり、自分の生まれた街の隠れた構造(道の敷かれ方の特殊性)を活かした小学校を設計したりした。
見えないものを見て、それをある程度意識した上で、かつアプリや法律ではなく目に見えるカタチに戻ってこれることが、建築の面白さであることに気づいていった。
 

https://mir-s3-cdn-cf.behance.net/project_modules/max_3840/47ca3d32942521.5712817087a4e.jpg  f:id:ryuta0201:20180120095639p:plain

銭湯と小学校 (Web portfolioより https://www.behance.net/ryuta0201)

「建物作っちゃダメだったねぇ〜」、マジか...

3年生の時に、自分はある課題において”農業の動きから生まれる音楽”に目を付けた。

www.youtube.com

動画のように、農作業を楽しむために音楽が使われることは、世界中でどこでもよく起きることだと発見した。
そして、じゃあ現代の音楽であるストリートダンススタジオの隣に、田んぼ入れちゃえ!ソイヤ!と、"建物"を設計した。

 

https://mir-s3-cdn-cf.behance.net/project_modules/max_3840/887cf831352043.564cbb3fe07c0.jpg


あまり、課題としての評価はよくなく、教授からもらったフィードバックで今でも覚えているのは、

”これは、建物作ったからダメだったね〜。農業をしているだけで人が気づいたら踊ってしまっているような、ゲームや、道具、作物の種類/配置まで設計するべきだったな"

というもの。

その時は、"建築学科なのに建物やんなくてもいいのか..."と衝撃だったが、今考え直すと、"建築"は元々物理的に人の身の回りの環境を変えて、人の知覚に作用し、行動を変えていく技術全般を指す言葉らしく、ある行動を起こしたい際に建物が適切なのか、常に考えてなければならない、ということだと思う。

※この、建築の定義に関しては建築界の中でもめちゃめちゃ意見が分かれるところで、もちろん"いや、普通に建物が建築だろ。"というポジションの人も多くいます。1960年あたりから、どんどん定義が拡張していてカオスな状態です。

※僕のポジションは、歴史的にいうと、ハンス・ホライン「全ては建築である」に近いものです。

この人は、人の知覚に作用し、行動を変えていく技術全般が建築なら、麻薬も建築だ!的なことを言っているスゴい人です。
 

建築設計以外に生きる経験

先ほどの課題のエピソードのように、設計を実際に行う側になると、その建物を使う人よりも多くの見えない部分が見えていなくてはならない。
建築学科の教育では、建築設計という教材を通して、様々な”見えない部分”が”見える部分”となり、それにより思考の幅が広がったのが最も大きな財産であったように思う。
それは、建築以外の日常生活や大学生なので就活の場などでも、大いに役に立っている。
 
例えば、以前あるゲーム会社でゲーム作りのインターンをした時。
それまでゲーム作りの経験は無かったが、建築で培った"見えないものを見る力"で、面白いゲームには必ず"興奮の緩急"があることを発見した。
それを、"カタチにする能力"を使い、興奮の緩急グラフを作り、チームのメンバーに共有したところ、うまく緩急のついた緊張感のあるゲームが設計できた。
 
また、設計課題の際に、大学の教育方針が"いいか悪いかは判断するが、やり方は自分で調べろ"と言ったものだったので、自然と独学を素早く行う能力が身についた。
この能力は、他のインターンで10日でプログラミング経験0からアプリを作らなければならなかった時に、大きく役立った。
 
 
こんな感じです。建築学科の外の方に、なんでみんなあんなに忙しそうにしていて、でも楽しそうなのかが伝わればと思います。
では!