エッフェソイヤ!

建築のバックグラウンドから、次世代の建築を作るにはどうすればいいか考えているデザイン系院生が、建築/ゲーム/XR/UXデザイン/シチュアシオニスト/バク転/カポエラ/パルクール/筋トレ/クラブカルチャーについて幅広く語ります。

やっぱり、スターウォーズが好きだ、と言う話

 
今回の記事は、多分デザイン系の学科にいたり、その仕事をしている人じゃないと”スターウォーズがすごいなんて、何当たり前のこと言ってるんだ…?”という感想になるかもしれません。
デザイン系学科やアート系学科だと、何と無くメジャーで商業的なものを、”金に魂を売った”的なニュアンスで蔑視する雰囲気があります。
 
それに対して、(自分はお前らと同じところにいるように見えて先に進んでるよ、みたいなニュアンスがあって、本当はすごく嫌いな言い方なのですが)”一周して”スターウォーズはやっぱりすごくて、俺は好きで、スターウォーズ的作品を目指していきたいね。どうすればできるかな?という話です。

https://i.ytimg.com/vi/fYEGSYvci_w/maxresdefault.jpg

 

誰でもわかる、誰でもそれなりに楽しい、の凄さと、スターウォーズ(笑)な人たち

 
作る人側からの視点で見ると、スターウォーズ的な立ち位置に自分の作品が上り詰めていくのは、ジャンルを問わず全てのクリエイターの憧れだろう。
 
世界の何億人もの人が、ハロウィンにはストームトルーパーやダース・ベイダーのコスプレをしたり、普通の映画よりもクオリティの高いファンによる自主制作映画などが大量に制作されている。
 
映画、建築、絵画、音楽問わず、自分の作品が多くの人に届いて、届いた人の考え方や行動が変わる、というのは作る人の根本的な喜びの一つではないだろうか。
(もちろん、自分で作った作品を自分で見て湧き上がる種類の喜びもありますが、それに加えてどうせ広がるなら多くの人に広がった方が嬉しくないでしょうか。)
 
スターウォーズのストーリーは、正直に言ってものすごく単純だ。
 
いい奴ら=ジェダイが、悪い奴ら=シスをぶっ倒す!宇宙!爆発!メカ!ライトセーバー!以上!
 
である。
それ故、僕の周りのクリエイティブ系の人は”スターウォーズねぇ(笑)”のような雰囲気を醸し出す人がちょくちょくいる。
 
彼らが、(笑)をつけるのは、そのストーリーの凡庸さや、”深み”(僕はこの言葉はあまり信用していません)がないことに起因している。
 
現代の資本主義の世の中において、資本が物凄く集中しているところで生まれるトップの作品、その一つがスターウォーズだと僕は思う。
商業的な世界で成功している作品の凄さは、母集団のスケールが大きさにある。
そして、母集団が大きくなると、すべての人に100点満点の体験を供給することは難しくなる。
スターウォーズのシーンの中に、急に東京の人しか通じないニッチなジョークが入ったりしたら、興ざめである。
全ての人に70点代を供給しなければ、利益が出ない為、対象とするマーケットが大きな作品は、ジャンルを問わずそうなる。
 
しかし、それでもスターウォーズがすごいのは、映画通でなくとも、田舎出身でも都会出身でもドイツ人でも日本人でも、見ると誰でもある程度は、感動を覚えることだ。
 
 

この人だけには、めちゃめちゃ愛される、も良いけど...(=特殊解)

 
スターウォーズとは逆に、小さな映画館や期間限定の映画祭でしか見れないような、すごくニッチだがトンがった作品も僕は好きだ。
必ずしも、トンがった=ホラーや殺人や自殺関係、という話ではなく、例えばコーヒアンドシガレットや、最近でいうとパターソンなどは僕も好きだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/8/8d/Coffee_and_Cigarettes_movie.jpg/220px-Coffee_and_Cigarettes_movie.jpg https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/b/b0/Paterson_%28film%29.png

 
ただ、田舎のいとこや、中学校時代のヤンキーの友達は、
 
そんなよくわかんないのよりスターウォーズ観に行こうぜ!!
 
というだろう。差別するつもりは全くなく、普段の生活環境が単純に違う僕と彼らでも、一緒にスターウォーズを観に行って楽しむことができる。これはすごいことだと思う。
コーヒーアンドシガレッツが好きな人は、明らかにスターウォーズが好きな人より少ない。
しかし、スターウォーズねぇ(笑)な界隈の人たちは、軒並みそう言った映画だけしか見なかったりする。
 
その雰囲気と似て、現代の建築家業界では、主な仕事が住宅の設計になり、(ゼネコンや組織設計に所属していない場合)多くがある決まったクライアントに響くものを作る、というある種の特殊解を生み出す仕事だ。
そして、大学により差はあるが、建築デザイン教育もそうした特殊解を生み出せる人材をフィルタリングする側面が少なからずある為、どこでも、誰でもある程度好き、という一般解的なものが毛嫌いされる雰囲気がある。
 
学生の課題では、"特殊解の特殊性”が、ある種の評価基準になっているように感じる。
 
ドラキュラの家、という僕の大学の教授であった石山修武先生の作った建築作品がある。
それはそれで、凄まじいし、僕も好きな建築だ。

f:id:ryuta0201:20180131090258p:image

 
しかし、この建築は驚くべきことに部屋の仕切りがない。お風呂場も部屋の中にむき出しである。
普通のハウスメーカーの住宅で、そのようなデザインをすれば一発でクビだろう。
これは、クライアントのものすごく特殊な要求と、石山修武先生の作家としての才能が奇跡的にマッチして生まれた凄まじい特殊解だ。
特殊解には、スターウォーズ的なものが届かない領域に行ける可能性も秘めている。
 
ただ、難しいのは、現在の建築界では”スターウォーズ的なもの”が過剰に毛嫌いされていて、建築界の中での良い作品の評価基準が、外部から見てあまりによく分からなくなっている点だろう。
建築界は、どんどんそれを評価する人も、それにお金を払う人も、評価もせずお金も払わないが認識している人も、縮小しており、かつ評価基準がどんどん普通の人と離れて行っていると感じる。
僕は、(数年程度だが)それなりに建築を勉強したが、未だに現代良いとされている多くの作品の良さがよく分からない。
 

建築界、"すっぱい葡萄"になってね?

 
なぜか、建築界では商業的な成功と建築界内での評価は、完全にトレードオフの関係になっている。
スターウォーズやゲーム業界でトリプルA作品と呼ばれる、マリオ、ゼルダ、グランドセフトオートのように”商業的成功を収めつつ、かつ業界内の人からの評価も高い”ような作品がなぜか出づらくなっている。
 
ピラミッド・サグラダファミリアに対して、
”いや、別にすごくなくね?”
という人はいないだろう。(よほど捻くれてる人でない限り)
 
これは、単に建築・ゲーム・映画という業界の違いから生まれるものなのだろうか?
分からないが、完成当初のピラミッドを見た当時のエジプトの普通の人が、
”ピラミッドの凄さ、よく分からんわ〜"
とは言わないだろうし、
当時のエジプトの建築家の人も、(当時のエジプトに建築家という職業があったかは調べてないですが)
“いや、あんなの王の権力を誇示してるだけのただの石積みだろ…知り合いの建築家の建てたミイラ安置所の方がいいよ..."
とは言わない気がする。(これは想像です。)
 
このトレードオフの関係は、普遍的なものでなく、現代の建築界(ほかの業界もそうかもしれません)に特殊なものである、と言えないだろうか。
特殊解に走ること、と、自分の作品を世の中に対してスケールさせて行くこと、
この二つは本当にトレードオフの関係にあるのだろうか。
どこでも、誰にでもある程度ウケて、かつ作者の”トゲ"もかなり残っている作品、は不可能ではないのではないか、と思う。
※この話については、今度どう実現すればいいかの仮説も含め、もう少し詳しく書こうかと思います。
 
商業的に成功した作品が全てではない、と言う言葉をしばしば建築学科にいると聞く。
それは、確かに間違ってはいない。
しかし、おそらくそればかりを言っている人は仮に資本主義ではない別の世の中の仕組みがメジャーになった時には、
XX的に成功した作品が全てではない、と言うだろう。(XXは資本主義以外の枠組みが出てきた後に生まれる、商業に代わる新しい産業)
なぜなら、商業的かどうかはどうでも良く、スターウォーズ的作品がすごいのは”たくさんのプレイヤーがいる場所で、トップを取った"という事実だからだ。
 
世の中でのスケールを保った名作を作ることができるが、あえて今までにない評価軸を生み出したり、120点を生み出す為に特殊解に挑戦して行く、というあり方(多くの巨匠クリエイターの晩年のあり方)と、
スケールを保った名作を作ることができないので、仕方なく特殊解らしきに行く(多くの普通のクリエイターの現実的な生き方)、というのは、一見やっていることは同じでもまったく違う次元の話だ。
 
いわゆる、すっぱい葡萄の童話の話だ。自分が手に入れられないものを、そもそも最初から価値のないものだと言って切り捨ててしまう、こうなってしまうと、色々と面白くないと思う。
 
 

まだ何も作ってないただの学生として

 
ここまで読んでくれた方は、"いや、お前スターウォーズ的作品一個も作ってねえだろ"、と当然思われるだろうが、ここで大事なのはどういう気持ちで作っているか、という話だと思う。
 
僕はスターウォーズが好きで、自分の作った作品がスターウォーズのようにスケールしなくても、スターウォーズ的なものを、”あんなのは商業作品だよ”とは言いたくない。
正直に自分のスケールさせて行く力が足りないことを認めていたい。
同じようにスターウォーズ的作品がまだ作れないただの学生でも、
 
それを素直に尊敬して、(可能性は限りなく低いが)目指して行くのと、
"あんなの商業作品だ"と言って捻くれるのでは、
 
僕は前者の方がいいと思う、という話だ。
 
これは、高校時代に部活で日本一になったことが関係しているかもしれない。
勝ち負けが明確なスポーツの世界では、負けたものは負けたもので、
 
カッコいい負け方をしたので別の見方では負けた方が素晴らしい、とはならない。
チームの哲学が素晴らしいので、地区予選一回戦負けのこのチームは、”チームフィロソフィー部門”で全国優勝です!とはならない。
負け方の批評史の中では、この負けは非常に重要に位置付けられるので、負けたチームは勝ったチームよりも価値がある!とはならない。
 
なので、僕は作品を見たり、自分の作った作品を見返すときに、どうしてもスポーツの勝ち負けのような一本の物差しを求めてしまうのかもしれない。
それゆえ、分かりやすくスケールのものすごく大きく、多くの人の手がかかっている作品に憧れるのかもしれない。
 
ただ、クリエイター業界の難しいかつ、面白いところは、全作品を比べる共通の物差しが存在しないことだと思う。
なんだこの寒そうなボロい小屋?、と思っても、見方を少し変えると歴史の中で重要な変化点を示している建築だった、というロジックは建築批評の文脈でよくある。
文脈や批評性で評価すると、様々な評価が可能で、それも面白い。
それに、今では使い古された言葉だがイノベーションも、本質は今までにない評価軸を生み出して行くことにある。
 
ただ、どれだけの人がどれだけの時間をある作品を作るのにかけて、どれだけの人がそれを体験するために自分の時間(お金)を費やしたか、という評価軸は、定量的な数字なのでごまかすことができない。
僕は、そのごまかしの効かないフィールドで勝負したいのかもしれない。で、負けたなら素直に負けたと言いたい。
 
僕は自分が作る作品を評価するときに、”世の中でのスケール”を忘れたくない。他にも様々な物差しがあり、作品ごとにそれは代わるが、自分の作品は共通して”スケールして行くのか”と言う基準で見ていたい。
 
 
素直に、
スターウォーズはすごい!俺もああいうの作りたい!でもまだできない!悔しい!
とずっといい続けようと思う。
 
ああ、エピソード8、めちゃめちゃ面白かったなあ。悔しいなあ。EP4から見直そう。