エッフェソイヤ!

建築のバックグラウンドから、次世代の建築を作るにはどうすればいいか考えているデザイン系院生が、建築/ゲーム/XR/UXデザイン/シチュアシオニスト/バク転/カポエラ/パルクール/筋トレ/クラブカルチャーについて幅広く語ります。

現代のルネサンスマンはどんな姿になるか

今回は、現代でおそらく可能になる、かつ僕がなりたい、と思っている建築家像の話をします。

目標は人に言うと叶わなくなるとかなんとか言う研究もありますが、書いてしまったので公開します。
もし、何かご存知で、そういうことだったらこういう道の方がいいんじゃん?というアドバイスがございましたら、ぜひご連絡下さい。
 

ルネサンスマン、カッケー!

 

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髭男爵の話をしているわけではないです。
まず、僕の好きな建築家たちの話をします。
ここであげる以上に好きな建築家は他にも大量にいるのですが、特に世の中での立ち位置としてすごく参考になるタイプの建築家を挙げます。
 
・ウィトルウィウス(紀元前の建築家/建築理論家)
建築家、というが、水車の構造に関しての提案をしたり、戦争用のバリスタを設計したり、とにかくなんでもやっていたみたいです。
 
・レオナルド・ダ・ヴィンチ(ルネサンス期の建築家、ルネサンスマンの語源になった人)
"音楽/建築/数学/幾何学/解剖学/生理学/動植物学/天文学/気象学/地質学/地理学/物理学/光学/力学/土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿を残した”
 

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ウィトルウィウスの人体に関する論考に触発されて、人体図を書いたのはダヴィンチです。
 
・バックミンスター・フラー(20世紀アメリカの建築家、発明家)
"思想家/デザイナー/構造家/建築家/発明家/詩人"

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・レム・コールハース(存命のオランダ出身の建築家)
建築家/都市計画家かつ、ジャーナリストおよび脚本家として昔は活動し、出版した本「錯乱のニューヨーク」で建築家デビューした。
 

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EUの旗を全部ストライプにすればいいんじゃないか?というデザインをしたのもこの人です。
後、僕の建築を始めたきっかけの一つのCCTVを設計した事務所もこの人が設立しました。
 
 
この辺の、僕が好きな建築家の人たちは、みんな肩書きにスラッシュ”/"がたくさんついているのに気づきました。
そして、レオナルド・ダ・ヴィンチは、"ルネサンスマン”と呼ばれたようです。
ルネサンスマンとは、彼のように色々な分野でものすごい結果を出しているスーパーマン、ということです。
普通に考えて、一人の人間がこれだけのことを成し遂げるってなかなか難しいよな、と思うのですが、それをやってしまうチート的な強さに、憧れます。
 
 
“え、これもやってあれもやって、しかもそれまでできるの!?ツエエー!カッケー!!”
 
という、中二病的な憧れを彼らに持っています。
もともと、建築が持っていたある種の総合性・全体性のようなものに非常に共感を覚えるので、それに近いことをしている人を”すげえなぁー憧れるなー”と思うわけです。
この、”/“スラッシュがたくさんあって、めちゃくちゃにデカいことを考えながら、世の中に今までにないモノ・それを支えるシステム作って行く人たち(建物も含む)、というのが本質的な意味では建築家だと僕は定義しています。
 
 

なぜ、建築家=建物だけを作る人になったか。

 
今の世の中の普通の人が、"建築家”という言葉を聞いた時に思いつくのは”ああ、オシャレな家を作ってくれる人ね!"という感想だと思います。そして、それは大方現代においては間違っていないと思います。
世の中が複雑化していくにつれ、建物は一人の人では管理しきれないくらいに複雑になり、それによる分業が進みました。(おそらく産業革命の時期にそれが進んでいったと思われますが、これはまたもう一つの記事になってしまうのでまたいつかに。https://www.designingbuildings.co.uk/wiki/The_architectural_profession→このサイトとか、建築家の職能の変遷がまとめてあります。)
 
今は、建物を建てる、という界隈に絞っただけでも、
・デベロッパー(建物の大枠や住宅地のコンセプト、不動産システムなどを決める人)
・建築士(図面を引く人)
    -意匠設計者(いわゆる、現代の”建築家”がいる場所。コンセプトに従い、建物を形にします。日本でおそらく30人いるかいないかの巨匠建築家になれば、自分でコンセプトを作れます。)
    -構造設計者(意匠設計者の形を、耐震やコストの観点から見て、現実的な構造を設計する人)
    -設備設計者(建物の断熱や、空調、水回りなどが合理的に配置される設計を考える人)
・インテリアデザイナー
・照明デザイナー
・施工者(大工さんやゼネコンの施工部の方々。実際に建てる人)
...
 
このように専業化が進んだ世の中では、建築家の本来的な姿は達成しづらいです。
建築家は、大昔あった姿と比べて、要は全身バラバラなんです。
 
 

部分的ルネサンスマンならなれるんじゃね?

 
Adobeが、最近AIにより様々なクリエイティブ作業を自動化する”Adobe Sensei”というシステムを発表しました。今まで行っていた、面倒臭いPhotoshopの画像切り抜きや、加工がワンタッチでAIがいい感じにしてくれる、というツールです。
感覚としては、これに似たようなことが、徐々に様々な業界で起こってくると予想されます。
 
専門性の中でも、ある程度、分かりきっている部分や、定量的で、最適化できる部分をAIというブラックボックスに入れていくことで、今よりは専業化の壁が低くなっていくと僕は考えています。
これは、自分の実感ともマッチしていて、例えば大学の設計課題をやるときも、よく分からない部分や作り方・ソフトの使い方があれば、ネットのチュートリアルをみて割とすぐにテクニックを身につけていくことができます。
 
この辺りの詳しい話は、落合陽一「魔法の世紀」などに書いてあります。 

 

魔法の世紀

 
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もちろん、AIを用いても一人の人間が全てをデザインする全知全能の神になることはできません。
ましてや、僕も別に普通の人に比べて圧倒的に頭がいいというわけではないのは今まで生きてきて散々痛感しています。
建築を建てるのも、実際にAIで定量的なデータにできない部分や、そもそもインプットするビッグデータの元がものすごく色々なフォーマットで保存されていたり、図面の引き方ですら一つの会社の部署ごとに違ったりするので、”建築家ロボット”みたいなものが出てくるのは相当先の話になると思います。しかし、設計する作業はどんどんと時間の効率化が進んでいくのに間違いはありません。
 
様々な業界においてそのようなことが起こってくると、自分の哲学・趣味・趣向と繋がった、ある限定を設けて、その中である種の総合性・全体性を持って様々なものをデザインしていく部分的ルネサンスマンとでもいうようなあり方は、現代において、かつてのレオナルド・ダ・ヴィンチレベルの才能がない人間でも可能だと思います。
 
それを可能にしているのは、
専門的な作業のハードルを下げていくAIにより補強されたツールと、
誰が何を行なっているかが可視化されて、人人が直接繋がるインターネット
のおかげです。
 
これは、言葉だけで捉えると”さっきの建築家バラバラの話と一緒じゃん”と捉えられがちなのですが、違います。
前者の話は、あらかじめ設けられた"専門性”の枠組みに対し、自分の興味・関心にあまり関係なく、少しずつ自分を騙しながら自分をフィットさせていき、その専門性に対して仕事が舞い込んでくるという働き方ですが、
僕のいっているのは、ある人の興味・関心・哲学から出発したその人の人間性に、対して、様々な種類の仕事が舞い込んできて、その仕事で作るものに応じて臨機応変にチーム編成が変化していく、という働き方が現代では可能なのではないか、という意味です。
 
例えば、シューティングゲームというコンテンツジャンルによる限り方、
例えば、日本のこの街、という地理的な限り方
もしくは、”バク転に関するものなら建物でも機械でもイベントでもなんでもやったるぜ!"というニッチな趣味による限り方、なんでもいいのですが、
 
それに応じて、例えば先ほどの”バク転に関しては任せておけ!”の人に対して、
 
・バク転のイベント開催
・バク転を覚える施設のコンセプト設計
・バク転ゲーム
・バク転映画
・バク転本
・バク転を基礎としたまちづくり
・バク転村
 
など、様々なメディアで仕事が舞い込んでくる、こういった総合性・全体性は現代において実現可能だと思います。
 
僕が目指している建築家像は、自分の持っているよく分からないこだわり、興味、言葉では説明不可能な世界観を発端として、それを表現するのに適切な様々なメディアを横断して(スラッシュをたくさん付けて)世の中にカタチを持ったモノを生み出していく姿です。
現代の”起業家"と呼ばれる人たちは、その姿に近いですが、多くの人は忙しすぎるので自分で手を動かしてモノの形を決める作業は外注してしまいます。
また、最近はやりの"デザイン思考・顧客目線"が先行するあまり、起業家自体の情熱のようなものがどこかに行ってしまうパターンもあります。(そういう人の方がお金は儲かるようです)
 
なので、あえて上のような定義をし、その中でも最終的には建物もしっかりデザインしていきたいと思います。人間の身体がデータになってしまうまでは、建築の大元はやはり"人間が立っている建物を建てる技術”を指しますから。
どのようにうまくすれば、大きなビジョンを持ち、かつ手を動かしつつ様々なことに首をつっこむことができるかはまだ分かりませんが、一番の理想としてはそのような働き方を、余計なストレスなくできれば最高だと考え、そのために今色々と実践をしています。
 

なんで素直に建物を作る仕事をしないの?

 
じゃあ、建物を建てる人、って限定から始めてもいいんじゃない?というご指摘があるかと思います。
 
僕の個人的な考えでは、今最初のステップとして建築事務所に入ってしまうと、僕にとってはその総合性が身につけづらいのかもしれないな、と思っています。
 
一つ目の理由は、建築、もしくは多くのハードウェアを作る業界は、ノウハウが非常に特殊で、専門的すぎて、他の分野への移植が難しいからです。
 
例えば、ゲーム業界でエンジニアとして、ゲームシステムの実装を行なっていた人が、Webエンジニアに転職するための努力は、
建築業界で病院だけを作っていた人、もしくは屋根の防水の詳細図面を描く仕事をしていた人がその後Webエンジニアにプログラミングの基礎から勉強して転職するための努力より、明らかに小さいと思われます。
 
もっと総合的に、スキルの汎用性を考え逆の方向に振り切るとなると、いま学生の就活界で流行っている経営コンサルタントなどの職業になってくるのでしょうが、僕はあくまで手を動かしてカタチのデザインができる世界にはいたいと思うので、進路としては今の所は考えていません。
 
もちろん、総合的な視野に立ち、建物以外にも様々なメディア・方法での実践を行なっている建築家の事務所はたくさんあります。特に、”巨匠"と呼ばれる建築家の方々は、椅子や机などのプロダクトデザイン、妹島和世さんなんかは電車のカタチまでデザインされています。
 

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妹島和世設計の電車
 
そこで二つ目の理由は、僕は学部の時の課題をそれなりに全力でやりましたが、正直に言って自分の作っているモノや考え方は今の建築界では評価がされづらいのだな、ということが分かった、というものです。
 
建築界の中で先述の様々な仕事が舞い込んでくる立場(=限定的ルネサンスマン)に行くためには、建築界の中でのある種独特な評価基準においてしっかりと評価され、信頼を積める必要があります。
しかし、僕は割と勉強をしたつもりだったのですが、学部3年生の設計課題での教授のフィードバックの意味が、よく分かりませんでした。よく分からなかったので、大学の評価基準も”何か明確な評価基準があるっぽいが、どうやってそう言う考えを生み出せばいいのかわからない"と言う状態になり、もちろん大学の課題の評価もそこまでいいものではありませんでした。
これは、どちらがダメでどちらがいい、という話ではなく、僕の短い人生の中で積み重ねてきた思考法や趣向が、現代の建築界のそれ、もしくは自分の出身大学のそれとマッチしていない、というだけだと思います。
 
それでふてくされるというよりは、普通に建築界の中でやっていても、先ほど挙げたような総合的に色々と作れる建築家の立場に行くことは難しいと思ったので、普通の人とは違う道を取らなければならないと考えました。
もちろん、今までより必死に勉強し、建築界の独特の評価基準に合わせた思考法・テクニックを意識的にインストールしていくことはできますが、それだと教育を受ける前から自然にそういった思考法ができたり、"建物”自体がものすごく好きでしょうがないんだ!と言う人には叶わない、と僕は思いました。
 
※余談ですが、僕の出身大学では、設計課題の評価基準が特殊なので、それに乗っかれる人と、乗っかれない人がハッキリと分かれます。乗っかれない人は、設計課題で作ったものを発表する機会すらないです。
多くの人はそれを辛い、と言いますが、僕は早い段階で自分の大学の基準とは別の道を歩もう、という判断が切れたので、すごく感謝しています。
自分の根本の思考法や趣向と合わないのに、無理やり大学側の基準に合わせるようなことをすると、短い目では結果が出ますが、長い目で見て行き詰まると思います。自分に無理をしているからです。
もちろん、デザイナーとして様々なお客さんのニーズに合わせられる能力は大事ですが、僕は大学の貴重な時間の間にやることではないかな、と思っていました。
ただ、課題で評価を得ることができる、というのはそれはそれで素晴らしい能力だと思います。
なので、大学院生になった今ではその能力もあればいいよな、と思い色々なコンペに挑戦はしています。まだ一度も勝ったことはないです。
 
 

あれ、ゲーム業界結構ルネサンスだな...

 
違う道を取らないとまずいな〜、と思いつつも、どうすればいいか分からず、悶々としながら日々を過ごして大学院に入ったところで、ひょんなことからあるゲーム会社でインターンをする機会がありました。
 
そして、その経験がすごく良かったので、就活が終わったわけではなく、行けるかどうかも全く分からないのですが、今はゲーム業界に行こうと思っています。
 
1つ目の理由は、ゲーム業界で培われる技術やスキルは、その周辺のクリエイティブ業界との互換性が非常に高い、というものです。
特にVR技術は、最近では映画とゲームの中間のまだ名前の付いていない何かを生み出しつつあります。今後、エンターテイメントのみではなく、様々な”体験"をデザインする際に、VR業界で素晴らしいコンテンツを作れる人がチームの中心となってコンテンツが生み出されるのではないか、と思っています。
 
僕の今注目しているVRコンテンツ制作者"Chris Milk"
 
スピルバーグがVRのスタートアップ会社に2億ドルの投資をしたというニュース。
 
このように、映画業界⇆ゲーム業界は割と想像ができますし、そこから徐々にVR→イベント→現実の空間設計と展開していくことは不可能ではないかと思います。
 
2つ目の理由は、単純なのですが、自分がゲームが好きだから、という点です。
高校・学部生の時は部活や課題で半分忘れかかっていたのですが、自分は暇さえあればゲームをしたり、何も言われてないのに勝手にゲームを作ったりする小・中学生でした。
それが、最近になって自由な選択肢と時間が増えるにつれ、再び再燃し出した感じがあります。
記事で散々”自分の趣味・趣向・哲学”と書きましたが、それに結構近い考え方をする人があった中だと多い、というのも今こう行った方向を目指している理由です。
 
 
一つ前の記事「ベルリンのゲーム学科に日本の建築学科生が乗り込んでみた」で、僕がベルリンのゲーム学科に行った時に思った”現代で最もクリエイティブな人はゲーム業界周辺に集まっているな"というのは、
中世ルネサンスのクリエイティブな人々がこぞってイタリアに集まり、建築・彫刻・絵画を作りまくってしのぎを削っていたのと似ていると思います。
ルネサンスの建築家が当時の”普通"の人が扱えなかった黄金比や彫刻や絵画の技術を総合的に運用していたように、
現代の建築家は息を吐くように3Dモデリング、プログラミング、グラフィックデザインができ、かつサービスデザインもできるべきだと考えます。僕はまだ勉強中で、ゲーム業界の一線でやっている人たちの足元にも及びませんが。
 
そして、先ほどのAdobe Senseiのような、AIと融合したソフトウェアは、プログラミングで動き、現実に質量を持って建つ必要のないゲームやVRコンテンツの製作ツールと非常に親和性が高いです。それ故、専門性を横断しつつ、ルネサンスマン的に振舞うことは、建築業界と比べるとより早く難易度が下がっていくのでは、と予想しています。
 
つまり、僕は現代において建築学生が”限定的ルネサンスマン”になる為には、全員が建築を捨てて別の業界に行ったり、起業したりゲーム業界に行くべき、と言っているわけではなく、自分のコアの趣向や哲学をずーっと観察して行った結果、自分の場合はゲームやその周辺と建築の間あたりなら、より可能性があるのではないか、と思っていると言うことです。