※この文書を書くにあたり、以下の書籍がきっかけになっています。動く建築がよくわからないけど好きだ、という建築学生の方は、ぜひ読んでみると良いかと思います。
Mobitecture: Architecture on the Move
- 作者: Rebecca Roke
- 出版社/メーカー: Phaidon Press
- 発売日: 2017/04/17
- メディア: ハードカバー
- この商品を含むブログを見る
シェムリアップ、トンレサップ湖にて
私が、今まで訪れた中で最も感動した建築は、2015年春、カンボジア、シェムリアップにて訪れた、乾季の水上集落だ。この集落は、春に行った2週間のカンボジア旅行の後半で訪れた。それまで、アンコールワット含めた数多くの遺跡、石山修武のひろしまハウス(閉館していたため外観からしか見ることができなかった)、街中の無数の名もなき建築、仮設の屋台などを眺めてきたが、一番この建築群に心を動かされた。
シェムリアップのトンレサップ湖の中央あたりに位置し、大分してボートの上に住まう移動式建築と、湖底に柱を差しかけた半定住型の建築の2種類があった。
まず、集落へは非常に水位が低い乾季の間に向かった為、半定住型の建築は、その足場をむき出しにしていた。
そこで驚いたのが、雨季には船の錨のような役割を果たす下部の構造体が、乾季には洗濯物干し、干物置き場、畑、使っていない船の置き場など、非常に多様な機能を有していたことだ。
住民の思考を辿れば、それは非常に自然な行為であり、彼らにとっては我々が暑い日は窓をあけ、寒い日は雨戸を閉めることと同じようなものなのだろう。
ただ、窓の開け閉め、日本の伝統的住宅の環境対応技術は、平面的、水平方向のものが多い。私は、上下運動する水位に対応した立体的な空間利用に驚かされ、かつそうした空間が乾季の間にしか立ち現れないという儚さに一種のロマンのようなものを感じた。
楔の打ち方
建築とは、気候変化、地形変動、水位変化等様々な外部環境の変化に対し、楔を打つ行為である、という当たり前の事実に、改めて気付かされた。
その楔の打ち方には、深いものもあれば、浅く、穏やかなものもある。先に記した半定住型の建築は、水位の上下動に関わらず、人が住まう空間の高さは一定である。 一方で、ボートの上に住まう形の建築は、その水位によって住まう場所の高さが変化する。それ故、当然のごとく建築は水の流れに即して微妙に移動していく。これは、前者の建築より明らかに楔の打ち方が浅い。
現代の東京に立っている、カンボジアの建築群と同じような名もなき建築と比較すると、その楔は明らかに深い。住宅は安全でなければならない、財産を守らなければならない、日本で言えば地震から身を守らなければならない、という考えが、その土台になっている。
ボートの上の、基礎がない建築
非常に”楔”の浅い橋
深くなる楔
高度経済成長期には外部環境を制御する技術として、エアコンが出現した。環境制御技術は進歩を続け、今や宇宙、深海、北極・南極という極限の空間に対しても、人間は楔を打つことが可能になりつつある。さらに、つい最近もてはやされるようになったVR/AR技術の進歩は、建築の当初の存在理由であった”生存のための環境制御”以上の、人間の感覚器官に直接訴えかけることで環境を制御しうる技術に進歩しつつある。
ただ、私がこれらの建築を見て思ったのは、環境制御はもっと穏やかでも、人間は生きていくことができるのではないか、という考えである。私が現代の一般的な住宅や、建築家の設計する美術館建築、建築基準法に即した”しっかりした”建築に漠然とした違和感を感じていたのは、このような考えがあったからだ、ということに気づいた。
卒業設計とのつながり
カンボジアのこれらの建築の、外部環境との関わり方を、現代の東京、渋谷において、アップデート、もしくは改変した上で実現できないかを考えたのが、私の卒業設計だったと思う。
卒業設計では、これらの建築の”外部環境に楔を打ちつつも、緩やかに外部環境を許容する”という状態を、屋上、建物の間、地下鉄乗り場の裏、など、通常では人が入り込まないような場に、通常の構造物を全て線材に置き換えていくことにより発生させる、という思いつきの手法で実現できないかを試みたが、力不足で建築に至らなかった。
当時の問題意識は、現代都市の建築は、外部環境に対して自閉的、ディスコミュニケーション状態にある、というものだった。都市と利用者、建築と建築、人同士、様々な層で現代はディスコミュニケーションが発生していると考えていた。
しかしながら、そのディスコミュニケーション状態に対し、昨今の”縁側空間を生むことにより、間に生まれるコミュニティ"といった言葉と、柔らかな水彩タッチのパースの嘘でコミュニケーションが成立しているかのように語る提案はしたくはなかった。
振り返って考えると、カンボジアの集落と、卒業設計の敷地である渋谷は、”外部環境"として捉えるべき変数が大きく違う。前者は、一番大きな変数が水の水位、そして雨風、地形といった極めて物理的なものだろう。
住所の概念も定着していなく、土地所有という概念が曖昧で、かつ建築物を集落の人々が自分で建築する為、不動産価値や建築費用といった変数は存在しない。一方で、渋谷では、もちろん雨風のような外部環境の影響はあれども、それは先述のエアコンをはじめとした高度な建築技術によりほぼ問題にならない。それよりも、むしろ変動する土地の価格であったり、様々な目的で都市を徘徊する不特定多数の人々であったり、その時の経済状況、建築界の言説、思想的流行り廃れ、流行りのスポット、最近ではポケモンGoでのポケモン出現場所など、物理的でない外部環境の影響が非常に強くなっている。
現代都市の建築は、物理的にはのっぺらぼうのファサード、四角いボリュームを有してディスコミュニケーション状態にあるように見えて、先に挙げた要素に対しては過剰すぎるぐらいに適応・反応しているのかもしれない。
しかし、それらのあまりに見えない、触れられない、抽象的な要素に反応しすぎる建築は、物質として人とどうコミュニケーションを結ぶか、つまり人がどのような物質的体験を享受できるか、という点がおろそかになる。
私は、カンボジアの圧倒的に物質、物理的環境に根ざした建築を見たのち、現代都市が圧倒的に抽象的で、手の届かない場所にあるという問題に対してアプローチをしていきたいと思っていたのかもしれない。