エッフェソイヤ!

建築のバックグラウンドから、次世代の建築を作るにはどうすればいいか考えているデザイン系院生が、建築/ゲーム/XR/UXデザイン/シチュアシオニスト/バク転/カポエラ/パルクール/筋トレ/クラブカルチャーについて幅広く語ります。

溶ける建築、溶け込む情報

こんにちは、藤井です!
1年前に書いた、少し硬めの記事を投稿します。

 

簡単に内容をまとめると、

建築って一般的に言われる建物のデザインよりも意味が広くて、身の回りの環境を色々とデザインして、人の知覚に作用し、行動を変える技術なので、似たようなことを実はスマホやVRも行っていると言えます。

ただ、現状のスマホやVRは、情報を視覚的に表示するのに止まっているので、建築ほど"空間がある"という感覚には至りづらいです。

しかし、VR技術が今のゴーグル以上に進歩した場合、そのコンテンツは建物としての建築と似たような影響を与えられることができて、そちらの方面から"実質的建築"を作ることは可能なのでは?

そうした場合、"建築家"って必ずしも建物を建てる人じゃなくてもいいですよね?

という話です。そのベースになっている本や研究結果なども載せています。 

2010年~2016年 スマートフォンの流行         2016年~ VRの登場
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映画「マトリックス」          映画「インセプション
 

 

 1.情報技術がもたらした、人々の”すれ違い"

 Twitterでは、自らに向けられたわけではない脈絡のないフォロワーのつぶやきが流れ続け、全く興味のないつぶやきも、フォロワーの”リツイート”により知ることができる。これは、”すれ違い”の一種である。また、様々なSNS上で、全く価値観の共有し得ない人々の不毛な議論が多く見られる。
情報空間において発生したこの”すれ違いの公共性”とも呼ばれる状況は、近年Pokemon Goなどに代表されるARゲームにおいて、現実空間に進出しつつある。現実>非現実=虚構という区別・序列は現代存在こそすれ、徐々に意味を持たなくなる。2017~40年の物理的な、建物としての建築は、そのすれ違いを現実空間で担保するための物理的容器となるのではないか。
 現実空間においてのPokemon Goプレイヤー同士の関係性は、 Twitter(情報空間)においてのフォロワー同士の関係に近い。基本的には横目で他者を認知しつつ、関与しないが、関与することが比較的簡単にできるという曖昧な状況、これが現代の”公共”である。1990~2000年代の情報技術がもたらした”圧倒的な切断”(家に引きこもるオタクのイメージ)に対して、これらを”すれ違い”と呼んでいる。
 VR等の情報を表示する視聴覚技術が発展し、この、すれ違う公共性は進化を続け、ある時点(おそらくシンギュラリティ近辺)で映画マトリックスのような、それぞれの人がそれぞれの非常に改変のしやすい”現実”に基づいて生きる、という世の中に変化するだろう。すれ違いが現実空間において立体的に、かつ非常に近い距離で行われるようになる。
 

2.建築の非物質化、仮想・現実の融溶

"すれ違い”の状況に見られるように、情報技術の転換期にある現代において、現実空間の建築は、徐々に様々な機能的要請を失い、それゆえ徐々に非物質的に変化していく可能性がある。(dematerialisation)
まずは、AR・VR技術の水準が十分に高くなった場合、視覚的形態においてある思想・概念を表現する、または人々を空間体験により感動させる物理的メディアとしての建築(建造物)は存在する必要がなくなる。何もない空間に、AR・VR技術によってその概念・感動する空間を表した立体空間を”投影”すれば良いためである。
これは、材料費がゴーグルの初期投資のみ、と経済的合理性が高いため、広く世の中に伝播する可能性がある。この分野においては、現在”ゲーム”と呼ばれるものと建築の境界線は限りなく薄くなっていくだろう。
※どうやらこのような議論は1990年代に建築界で起こり、その際は取るに足らないものとして扱われていたらしい。その文献を調べる必要あり。サイバーアーキテクチャー?
 
Cyberspace, Virtuality, and the Real: Some Architectural Reflections “Architecture from Outside"
新しいメディアの登場が、建築の役割を変容させることについて論じている文章     
 
ヴィクトル・ユゴーノートル=ダム・ド・パリ』(辻昶+松下和則訳、潮出版社、二〇〇〇)において、ユゴーが「紙の本が大聖堂を殺す」と論じた。これは、新たなメディアの出現により、それまで建築が担っていた役割の一部をそのメディアが担うことになる、という意味である。宗教の偉大さ、超越性を伝えるという大聖堂の役割は、書籍の文章で十分になった。同じようなことが、VR/AR技術+ICT技術と、現代建築で起こるのは想像に難くない。
 
 
 

3.溶ける職能

2010年代までは存在していた、自らの概念・私性を建造物の形態により表現する建築家という職能は、以下に分散するのではないか。
 
①ゲームディレクター・映画監督に類似し、現実空間に、一般の人々の想像力を超えたゲーム・映画的状況(空間)を作り出す職能
この流れに対する具体的ソース:http://www.bbc.com/news/business-33757862
既存のゲーム産業・映画産業は既に現実的な制約(材料費、重力、法規、雨風などの環境の変化)がないことを前提として世界作り・表現を行なっているため、従来の建築家は純粋な表現力で戦っていくことは厳しい。
 
②まだ情報技術が十分に進出していない発展途上国、もしくは先進国の技術導入が遅れている地域・共同体(日本の地方部など)において、大規模プロジェクトに関わる伝統的スターキテクト・大手組織設計に近い職能
既存事例(日本人若手):田根剛、重松象平、石上純也
すでに情報技術が先進国で発明されている場合、発展途上国が現在の先進国的状況になるのは、先進国が辿ってきた道よりもはるかに短い。(現状、ソース無し)
③確立された工法で”住みやすい家”・もしくは工場・発電所などのインフラを作り、保守・保全を行う職能(自動設計・自動施工技術が爆発的に進歩するにつれ無くなっていく。)
AR/VR状態にない時の人々の豊かな暮らしを担保する(多くの人がスマホ導入後一日中それを眺めて過ごす状態から鑑みるに、1日の大半をAR状態で過ごす人が世の中の大半になるのもあり得るのではないか)この中に、"建物"のエネルギーパフォーマンス、構造最適性、軽量化などの、エンジニアリングの職業も含まれる。
 
この3つに集約されるだろう。
※もしくは、何か ”オブジェクト” (それが現実に存在するモノであるかないかは問わない)の形態をデザインする、という縛りを外し、建築家を”自らの私性を媒介として産む新しい枠組みで、世の中に影響を与える職能”と抽象的に解釈した場合、それは今でいう起業家などの職業になる。
 
 

4.少し飛躍した未来

さらに時代が進み、仮に1日のほとんどの時間を人々がVR/AR技術により”自らの現実(Self-reality = SR?)”のみを見て過ごすようになった場合、壁面等による視覚的な空間の分節は必要がなくなる。
※この段階まで至るには、現存するゴーグルが、コンタクトレンズのようなものになる、もしくは人間の感覚器官に直接的に刺激を加える種類のVR/ARデバイスが必要になるだろう。
→後者を示唆する既往研究はないだろうか?Brain uploading・デジタルネイチャーグループ
そうなると、建築の内壁・床は、網のようなもので十分になるかもしれない。あるいは、触覚・身体の平衡感覚までも比較的安価に普及するデバイスにより再現ができた場合、ほとんどの建築で壁面の配置は必要がなくなる。電車内でスマートフォンを見る人々の画面が、彼らの目、もしくは全身を覆った場合を想像すると理解しやすい。望ましくない他者(オブジェクトも含む)・光景は、それこそTwitterのように”非表示・ブロック”が可能になる。そもそも情報技術はその性質としてユーザーが自己参照的、自己肯定的に情報を集めるように設計されている場合が多い。Amazonの”おすすめ機能”、Googleの”カスタマイズ検索”などがその好例である。
 
そのようなさほど遠くない時代になった時、物質としての建築は何を担保するべきなのか。VR-AR-SR技術に追従する、もしくは、願わくば、それに先行する建築は何か。
 
・命・財産を雨・風・侵入者から守ること(シェルター)
・大気の調整
・食事の場
・トイレ
・浴槽・シャワー
この基本的な要素以外に、物質的建築に対する要請はなくなってくる。そうなった時に、建造物の意匠設計により経済的利益を得ることは不可能になる。建造物は、ごくごく標準的な規格の壁のない、地震や災害で壊れない箱で十分になる。資本主義経済が継続している場合、それは実質的な建築界の死を意味する。残された課題はない。
 
磯崎新 「建築の解体」
川添登 「建築の滅亡」
 
 

5.登場し始めた新しい情報技術 

この危機は、現在の感覚で捉えるならば相当先の話のように思え、まだ我々の世代では訪れないのではないか、と多くの人は信じている(そう思いたいというバイアスが働いている)
また、もう一つの信仰は、物質的な現前性(ライブ)の価値は絶対不可侵であり、物質的ではない情報技術が物質である建築よりも生活を変化させることは有り得ない、というものである。
情報技術が進歩した今でも、人々は会議するためにface-to-faceで会っており、これは現前性の普遍的な価値である、といった思考はこれに当たる。
この信仰は、2つの拠り所がある。
①技術の進歩スピードは一次関数的である、という想定
しかし、現実の観察から導き出されるのは、予測不能な技術革新による、突然の変化である。例えば、2009年以前スマートフォンはほとんどの人が持っていなかったが、今では電車内で人々は常に"スマホ"を手にしている。
 
②情報技術を現実空間に”投影”するデバイスが液晶スクリーンに限られる、という想定
現状、デバイスとして触覚スクリーンや、Bartlett建築大学院で開発されているデータ可視化スーツなどが出現し始めており、情報空間が現実空間に進出、もしくは融溶するのにそう時間はかからないように思える。
※触覚スクリーン等、視覚以外での情報表現デバイスの研究は、すでに国内国外を問わずかなりの量がなされている。
筑波大学落合陽一(ホログラム)
・Bartlett建築大学院
 

 

 

 

 

 

 
今までにあった反論
・VR/AR技術は高価な技術で、これから世界全体の経済は、発展途上国と先進国の差が平準化されて行くため、一部の人しか手にできない。それゆえ、現実空間をデザインする職業は残る。
→つまり、貧乏人を相手に現実空間をデザインしなければならない。どちらにせよそれは経済的に持続しないのではないか。
 
・思ったより世の中はそう速く進歩していかないよ
→実感ベースでは分からなくもない
 
・進歩に対し少しナイーブすぎるかな