VR x 建築や、ゲーム x 建築、ということばかり言っているので、この人、建築嫌いなのかな?と思われるかもしれませんが、むしろ僕は逆です。
建築は大好きですが、建築業界の今の状態や、社会での立ち位置から建築家として行えるのことの少なさが嫌い、という方が正確です。
今回は、一般的に建築を語るときになされる、どんな建物のカタチや素材や、図面における配置(=建築)が好きか、という話ではなく、それにより生まれたどのような雰囲気の場所(=空間)が好きか、というのを説明してみようと思います。
毛深い空間を作りたい
毛深い空間、というのは、僕の慕っている建築家の方が、学部の頃の僕の作品を見て、
“藤井君は、毛深い空間が作りたいんだねぇ”
とおっしゃってくれた時の言葉です。
その時にイメージしていた空間は、こんな感じのものです。
荒木町という東京・四谷の飲み屋街に、元々の建物をリノベし、もしゃもしゃとした構造体で持ち上げられた銭湯を作り、そのもしゃもしゃの中に色々な人が好き勝手飲み会をしたり屋台で遊ぶ、という建築です。
(学生の課題なので、正直構造や水回りなどは全く考えられていませんが、世界観・イメージを先行させて作った作品です。)
構造がまずありえない上に、下で何が起こるかは完全にユーザー任せ、という設計を半分放棄したような建築なので、学内での評価はあまりよくありませんでした。
ただ、同期のあまり建築に興味のない友人から、
「俺、建築よくわかんねーけどここで飲み会してーわ!楽しそう!」
と言われたので、僕としては非常に気に入っている作品です。
この作品を作って、僕は毛深い空間が重要だと思っているんだな、ということが確認できました。
(作品を手で動かして作ることの良いことは、自分の無意識から出てきた作品を見返し、発見し、思考が影響されることでもあると思います。)
まだ、どんな条件を有している空間か、は完全に言葉にはできないのですが、
- 綺麗さや、完璧さとは対極にある空間(美術館建築の逆)
- 良い具合の不便さ、不完全さ、ズレなどがみられる空間(非機能主義的建築)
- 視覚だけでなく、手触りや、身体に直接訴えかけてくるような空間(五感の外にも作用する建築)
- 使う人が自分の使いやすいように改変していった手垢が残る空間(住みこなし、空間の流用・転用などの文脈)
"毛深い空間"は、少なくとも、このような要素が含まれる空間のことを指します。
自分が体験した毛深い空間
自分が実際に行ってみて感動した空間は、建築家による美術館建築も良いですが、そう言った無名の”毛深い"場所が多かったです。
メキシコのマーケット。個人個人が勝手にテントを張って、空間を作って行っている。
カンボジアの水上集落。良い感じに適当な構造の中に、住んでいる人の家財道具が保管されている。
東京、荒木町の飲み屋街。
ベルリンの、アメリカ軍の対ソ連無線傍受施設がアーティストたちにより占拠されてできた場所。写真は、パラボラアンテナの下で、ここがものすごく毛深い。
また、僕のInstagramアカウントは、結構毛深くなっているので、みていただくと何を言っているか、より理解していただけると思います。
ここに挙げた写真だけで見てしまうと、グラフィッティや、看板、雑草、カラフル、など、視覚的に分かりやすい部分に目が行きますが、実際に行ってみるとそれだけではない質を感じることができます。
東京の丸の内では、丸の内に親しみを持ってもらう、というコンセプトで様々なイベントが企画されていますが、"毛深さ”とは遠い雰囲気になるのはその目に見えない”質”が抜け落ちている為だと考えられます。
また、視覚的に様々なオブジェクトが配置してあり、人々が好きなように振舞っているかのように見えるディズニーランドは、確かに楽しいですが、これは毛深い空間とは真逆に位置するものです。
(これら二つの事例は、そもそも本当の”毛深さ”を志向してしまうと経済的利益やブランディングの観点から好ましくない為、あくまで皆が好きに振舞っているように見せる、というのがデザインの目的で、その目的に対しては非常に成功している事例だと思います。)
しかし、前に挙げたもじゃもじゃに”毛深い"事例と、それらの生成過程を考えてみて共通しているのは、それらが数十年、場合によっては数百年スパンで醸成された文化から生まれる空間の質で、それを建築家一人でなすのは不可能に近い、ということです。
例えば、最後のベルリンの事例は、いわばソ連とアメリカの冷戦から偶然生まれた施設に、冷戦崩壊後、偶然アーティスト達が住み着き、工学的な理由から、偶然頂上にあった球状のアンテナがシンボルになった、という事例です。
このような奇跡的なストーリーは、なかなか建築家一人が想定しても、そのようには運びません。
そして、おそらくそれがうまくいったとしても、うまくいった頃には建築家はもうこの世にいない、という場合がほとんどではないでしょうか。
毛深い空間を目指す先人たち
建築界でも建築家の方が様々な言葉で、似たような空間の質を捉えようとしています。
平田晃久|建築とは〈からまりしろ〉をつくることである (現代建築家コンセプト・シリーズ)
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平田晃久さんの絡まりしろのある空間
- 作者: アトリエ・ワン,塚本由晴,貝島桃代,田中功起,中谷礼仁,篠原雅武,佐々木啓,能作文徳,東京工業大学塚本由晴研究室,飯尾次郎,出原日向子,境洋人
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青木淳さんの原っぱと遊園地、における原っぱ的空間
How Buildings Learn: What Happens After They're Built
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また、アメリカの住宅建築や公共建築がどのように住みこなされてきたかを克明に記述・分析したHow buildings learnなど
この人達の指向性と僕の指向性は似ていると思います。
興味のある方は是非一読してみてください。読むと、このような第一線で活躍されている建築家でも、毛深い空間を生み出すのにものすごく苦労している、ということがわかると思います。
現実では毛深さの価値はまだまだ認められていない
20世紀初頭の建築家に、ミース・ファン・デル・ローエ(以下、ミース)という巨匠がいます。
この人の作った建築は”毛深さ”とは全く逆の方向性を志向して行った結果、ある極地までたどり着いた人だと思います。
毛深い空間は、現代あるニッチな界隈の人(多くが建築をそれなりに深く勉強した人です)では好かれていますが、世の中のメインストリームは、まだミースのような王道的に綺麗で、さっぱりとした場所が好きな人が多いのではないでしょうか。
一般的に”建築家”に建ててもらう作品、と言われると、上のミースの建築にどこか似たような建築をイメージする人が多いのではないでしょうか。
しかし、彼の建築は本当に素晴らしいのですが、同時にとても視覚的だと言えると思います。
彼の建築に対して、登ったり、ぶら下がったり、飛び降りたりすることはそもそも想定されていないですし、それをさせないレベルのある種の近寄りがたさ、崇高さのようなものがミース建築の価値でもあると思います。
大学の設計課題も、大学によりまちまちですが、このミースさんが凄まじすぎて、それ以降の評価軸が確立されていない為、彼のようにプロポーションや素材の配置を極めた、"視覚的に美しい"作品が最終的には評価される傾向にあります。
しかし、上のYoutube動画でもわかるように、2018年現在において、彼の空間の視覚的な側面は、かなり正確に表現することが可能になっていると言えるのではないでしょうか。
(2018年現在での2Dスクリーンでこれを見るのではなく、数年後に発売されるだろう、ものすごく軽い、ほぼ透明なVRゴーグルをつけて、この映像に"包まれる"状態を想像してみてください。)
もちろん、彼の建築を僕よりも深く理解している人からは、「ミースの建築は視覚だけではない!」とお叱りを受けそうですが、僕は人の動きも含めた"毛深さ"をVR空間で再現する方が、ミースの建築を完全再現するよりも難しいのではないか、と考えています。
VR技術がさっぱりした、”綺麗な”空間を、視覚的に完全に再現可能になり、かつデバイスがスマホレベルに日常に普及するようになり、視覚的な空間の刺激はVRで十分だろう、となった時、VR技術での再現がより難しい、毛深い空間の価値が見直されるようになるのではないでしょうか。
しかし、これだけでは、”じゃあ、その見直しが起こるまで建築界で10年〜20年我慢した方がよくない?”となります。
何故、毛深さとは真逆のVR/ゲームへ行きたいのか?
僕がVR/ゲーム業界に行こうとしているのは、
業界自体の若さから生まれる健全さや、
これからの空間づくりの手法におけるメインストリームの変化、
毛深さとは別のレイヤーでの自分の興味・趣向、
という話もあるのですが、毛深い空間を今までにない方法で作れるのではないか、という仮説を持っている為です。
その理由を、二つ挙げます。
(このセクションは、かなりまだ構築中の考えなので、何かご指摘があればコメントなど頂けますと嬉しいです。)
①よくできた偽物を作ろうとすると、本物を作る人より本物を理解できるようになるから
ゲーム業界では、今視覚的なリアリズムの限界にたどり着きつつあります。
超高画質な3Dモデルにより、視覚的には非常にリアルな空間が表現されるが、何か体験として、本物さに欠ける、物足りない、という状態です。
僕は、ゲーム空間に別のリアリティを評価する指標として”毛深さ"のようなものが導入可能ではないか、と思っています。
よく、ロボットの研究を通して人間のことを深く理解できるというように、ゲームで世界を作るときも世界(の認識)について理解していくように思える。どんなふうにすれば都市らしくなるのか、という挑戦にはかなり野心的な系譜がある。この前のアンチャーテッドDLCは凄かったな。
— 吉江俊 (@___shun) 2017年10月25日
最近のゲームでは、建物のテクスチャ、植物やキッチン用品などの小物はほぼ無限にあるけれど、それらをコピペしながらも少しずつ変えて違和感なくするような工夫とか、まさにわれわれの生活を再現しているようなところがあるよね。
— 吉江俊 (@___shun) 2017年10月25日
引用させてもらったツイートが、その考えをものすごくよくまとめています。
都市らしさ、本物らしさ、を作るためには、本物を作っている人以上に本物を理解していなければなりません。
そういう意味で、毛深さを擬似的に作ることが求められている業界で、先に挙げた建築界の先人達の知恵を踏まえ、それに向かって行くことは、現実空間で毛深さに向かっている人とはまた別の知見を提供できるのではないか、という仮説を持っています。
例えば、引用したツイートに上がっていた、アンチャーッテッドのゲームプレイ動画をみていると、ふと出てくるストーリーとは直接関係のないモブキャラや、ホコリ、ゴミ箱など、かなり毛深さを意識した設計がなされていると言えるのではないでしょうか。
もしかしたら、本物の都市を真似する際、その仕組みを非常に深く理解し、現実空間を超えた毛深さを先に産んで、それを現実空間に浸透させることも可能ではないか、とゲーム動画を大量に見ていると思います。
②ゲーム空間の中だと、時間の概念を操作できるので、一人の設計者が複数の作品において、毛深い空間を引き起こすのが可能になるのではないか、と思うから
毛深さは長い歴史や文化の蓄積の上で生まれるもので、一人の建築家の人生でそれを何回も引き起こすのは非常に難しい、という話をしました。
これ、分野を変えても本当なのでしょうか。
上の難しさは、建築が物理的な存在である、ということに起因していて、それ故建つまでに長い時間がかかるから、だと考えられます。
ゲームであれば、"建築学生がUnityで初めてゲームを作って考えたこと"で記したように、作品のフィードバックのスパンが圧倒的に早く、かつユーザーもこれから増えていきます。
Grand Theft Autoのように、多くのプレイヤーがあるプログラムの上で遊ぶタイプのゲームでは、MODと呼ばれる"プレイヤーによるゲームの改造"がしょっちゅう起こります。
つまり、"都市"というゲームの上で"テントを張る"という改変を行う人、と同じで、"グラセフ"というゲームの上で"MOD"という改変を行う人、という状態がゲームでは大量に発生しています。
この、設計者に予想外のプレイヤーの操作が、ゲーム自体を超えた何かを生み出す現象が起こる可能性を上げることができれば、そのノウハウを現実空間に応用していくことは、僕は可能だと思っています。
そして、可能性を上げるためのノウハウを確率するためには、できるだけ多くの回数、素早くトライアルエラーを行うしかないと僕は思っています。
それ故、建築とゲームをフラットにみた場合、僕はゲームの方がトライアルエラーの回数は多いと思っています。
ゲームでレベルアップした後、建築に帰ってくる、ということは可能なのではないか、と今は思っています。